2022年8月19日(金)公開の
映画「サバカン SABAKAN」宣伝部員を拝命しました
おめでとうございます!
ありがとうございます
それはそうと
はい
2年ぶりですね、ブログ
本日は7月12日に行われたオンライン試写会で
ひと足お先に拝見させていただきましたので、、、
映画紹介と感想を書かせていただきます
正確には2年と3か月ぶりですね、ブログ
『サバカン SABAKAN』 2022年8月19日公開
監督:金沢知樹 出演:番家一路、原田琥之佑、尾野真千子、竹原ピストル、貫地谷しほり、草彅剛、岩松了ほか
物語のティザー
1986年長崎。小学5年生の久田は、夫婦喧嘩は多いが愛情深い両親と弟に囲まれ幸せに暮らしている。一方、竹本は家が貧しくクラスメートから避けられていた。
「来てるらしいよ、イルカ」竹本の言葉をきっかけに、とくに親しくしていたわけではなかった少年たちはある夏の日、2人きりで冒険にでることを決めた。まだ行ったことのないその場所“ブーメラン島”を目指して・・・。
トレイラー
<Amazon 台風家族 原作本>
「サバカン SABAKAN」 金沢 知樹(著)
記憶の女神に祝福された映画『サバカン SABAKAN』
もともとその才は際立っていた。
映画「ミッドナイトスワン」以降、草彅剛という俳優はますますミューズとしての輝きを強めていると感じた。
私は草彅剛=ミューズ論者である。
その根拠は最後に書くとして、まずはこのオーソドックスかつ邦画としては実に挑戦的で魅力的な本作『サバカン』について書きたいと思います。
特別で挑戦的で魅力的な青春映画
「死体を見たくないか?」という印象的なセリフで少年たちの冒険がはじまる青春映画の金字塔『スタンド・バイ・ミー』を思い浮かべる人も少なくないでしょう。
『スタンド・バイ・ミー』は1987年の作品。その後も子ども達の友情を描いた作品は数あれど“特別”な青春映画と呼べる作品はいまだに『スタンド・バイ・ミー』以外ちょっと思い浮かばなかった。
そんな特別で挑戦的で魅力的な青春映画にまさか邦画で出会えるとは。
暴力的なまでに郷愁を呼び起こすその時代の映像と音楽、その年代の少年たちでなければ表現することのできない危うさは特別な青春映画の必須条件なのかもしれない。
ただ、それだけではいつまでも心に残る“特別”な青春映画にはならない。
【本作を”特別”にしたもの】
以下ネタバレを含んでいるかもしれません(予告動画以上の情報を入れたくない方は読み飛ばしてください)。
本作にて主人公に据えられたのは児童期後半の2人の少年、久田(番家一路)と竹本(原田琥之佑)。
なぜその年ごろの少年たちでなければなかったのか。
それは親から自立することを無意識に模索し始める年ごろ。
一方で親から自立しようとする際に生じる心の不安がその足取りを重くする年ごろでもある。
そんなどこか漠然とした不安を抱えるころ、子どもが友人に求めるもの。
それは秘密を共有する閉鎖性であり同一行動による一体感がもたらす絆だ。
友と共有する確かな絆だけが親から自立する際に生じる不安を和らげてくれる。
つまりその年代の子どもにとって、生まれて初めて親依存からの脱却を試みる時期を共に歩む友はまさに同士であり、互いに無くてはならない存在なのだ。
だからこそ彼らは“特別”な絆で結ばれた友になったのだと、遠い昔に子どもだった大人は自身と記憶と重ねながら今更ながらに気づく。
あの頃でなければ築けない絆なのだったということを。
jamさんもそんな友がいたのですか?
んー、、、
いたような、いなかったような、、
いたら良かったな、みたいな
jamさん、、、
昔からお友達が、、、
【本作が試みた“挑戦”】
『サバカン』を観て、否定的な意味で『スタンド・バイ・ミー』のフォロワー作品じゃないかという批判が寄せられることは想像に難くない。
けれども、そういった批判が寄せられることを予想してもなお、この映画を“特別”なものにするためにはやはりこれだと信じて監督は脚本を書きすすめたのではないだろうか。
子ども達にとってはじめての大きな心の冒険。
目に見えない成長を映像化するのにこれ以上のプロットはないかもしれないのだから。
あの金字塔と呼ばれる傑作と同じ土俵に上ろうとしているのだから。
その意味で本作は非常に挑戦的な作品といえる。
そしてその試みは成功していると断言します。
そしてもうひとつ、本作で驚かされた挑戦的な試み(と勝手に私が思っている)があります。
それは青春映画に定番のある要素を綺麗にそぎ落としていることです。
それは”ボーイ・ミーツ・ガール”です。
特に邦画の場合は商業映画のお約束から離れる事が難しいのか、濃淡はあれど余計な恋愛要素を入れたがります。
しかし前章で記述したように、本作が描きかったものは甘酸っぱい恋心でもなければ、生と性に苦悶する思春期のめざめでもありません。
親からの自立を試みるという、人生で初めてかもしれない子どもたちの大冒険の様子です。
つまり恋愛要素は焦点をぼかす要素にしかならず、不要なのです。
”ボーイ・ミーツ・ガール”を切り捨てる。
〇〇製作委員会方式が主流の邦画では、まず考えられないのことではないでしょうか(いろいろと損をしないための保険をかけたがります)。
本作の製作はCULENとギークサイトの2社のクレジットのみ。
全国ロードショーを掲げた映画でこれは大英断ではないでしょうか。
邦画界ではインディペンデント的な試みを選択した本作ですが、完成した映画は見事にエンターテイメント作品でした。
派手なエピソードや演出はないにも関わらず(そもそも子どもたちの一日にスペクタクルな事件はそうそう起こりません)、私の目と耳はずっと画面にくぎ付けでした。
【本作を”魅力的”にしているもの】
綺麗すぎない家屋、懐かしくも美しい長崎の山と海の映像。
音楽は映像音楽の名手大島ミチル。故郷長崎のほろ苦くかつ包み込むような思い出を今の心と重ねて作曲されたそうです。
脚本は本作が映画初監督となる金沢知樹と萩森淳による共同オリジナル脚本。物語は創作ですが監督の幼い頃の体験や、登場人物にもほぼモデルがいるとのこと。
魅力的な映画とは、良い映像、良い音楽、良いお芝居、そして共感できる物語があって、けれどそれだけではない。本作はその全てが備わっている。
しかしその全てが備わっていなくても魅力的な作品というものも多く実在する。
魅力的な映画は観たものに長く余韻を残す。それを決定づけるもの、それは作品全体を覆うテイスト、カラー、トーンと言ってもいいかもしれない。
今回その映画の色を決定する役割を果たしているのは草彅剛だ。
草彅剛本人の登場シーンはごくわずかなのだが、映画全編を草彅剛のナレーションが覆っており、大人になった久田がずっと物語を見守るかのように寄り添っている。
観客は久田の語りに耳を傾けているうちに、いつしか思い出ごと包み込みこまれ、少し不安で、けれどもいつもどきどきしていたあの頃にいざなわれるのだ。
その慈しみに満ちたトーンの声は、効果的な大島ミチルの曲と溶け合う音楽となり映画をさらに豪華なものとし。その俯瞰した声のもつオーラは少年たちのささやかな冒険物語を高みへと引き上げ本作を極上のエンターテイメント作品に押し上げることに貢献している。
私は以前、ブログで共演する女優を輝かせる草彅マジックについて書いたことがあります。
「草彅剛自身が持っていない女性性の特徴といわれる母性や受容性を引き出し、魅力的に見せる」などと、とんでもなく見当違いなことを書いていました。
私はまだまだ草彅剛という俳優を
過小評価していたようです
ここでお詫びさせていただきます
草彅剛は映画『ミッドナイトスワン』において母性愛に目覚めた女性を演じ、その真摯な愛は聖母の片鱗すら漂わせていました。
草彅剛は巨大な母性すら内包し。必要とあらば菩薩すら演じきることが可能なのではないだろうか。
「その昔、厩戸王子を彼にやってほしいと思っていました。その意味では、私の目に狂いはなかったのですね。」
敬愛する漫画家山岸涼子先生がミッドナイトスワンに寄せたコメントの抜粋です。
山岸涼子先生の慧眼も凄すぎです!
あ!このシーンは
・・・
エキストラなのに
jamさんのせいでNGをだしたシーン
・・・
草彅剛の演技は決して自らのイメージを押し付けることはしない。
その必要がないのだ。
観る者の体験やイメージ、記憶を鏡のように映し出す魔法が使えるからだ。
私たちが彼の演じた人物のその後を、物語が終わってもまるで実在するかのように案じ続けてしまうのは、きっと魔法にかかけられているからなのだろう。
それは共演する俳優陣も同様なのかもしれない。
本作は直接俳優さんたちとの絡みはなくとも、ストーリーテラーとして草彅剛がナレーションで映画全編に魔法をかけている。
決して映像や音楽の邪魔をすることのない、耳にここちよい抑揚で物語るその声の主とともに、観客は自身の記憶と重ね合わせてスクリーンの少年たちと同じ時間を過ごすのだ。
記憶を司る女神
記憶というものは不思議なものだ。
誰しもが過去に嫌な思いをしたことがあるはず。
例えば子どものころ、音楽の時間にハーモニカがうまく吹けずクラスメートの前で恥をかいたとしましょう。
そしてその体験を昇華することができずに苦しい記憶として鮮明にずっと持ち続けることになったとしたら、、、
二度とハーモニカを吹こうなどとは思わなくなってしまうことでしょう。
例えば料理をしていて指を切ったとしましょう。
その時の痛みと恐怖と後悔を、いつまでも鮮明は記憶のまま持ち続けていたとしたら、、、
もう二度と料理をしようなどとは思わなくなってしまうことでしょう。
しかし実際には多くの場合、再びハーモニカの練習をするでしょうし、台所にも立つことでしょう。
記憶は経験となり、やがて過去のできごと(思い出)として昇華されていく。
記憶は変化するのです。記録とは異なるものです。
だから失敗しても、ひとはまた挑戦できる。成長することができるのだと思う。
それは神から授かった特別な能力なのかもしれません。
ギリシア神話に記憶を司るムネモシュネという女神が登場します。
天空神ウラノスと大地神ガイアの娘というものすごい両親を持つ女神ですが、記述として残っているエピソードは少ない謎多き女神です。
そしてムネモシュネは有名な女神たちの母でもあります。
人間の持つ苦しい記憶を忘れ、癒すために最高神ゼウスともうけた9人の姉妹(ミューズ)の母こそが記憶の女神ムネモシュネなのです。
ミューズたちは歴史や天文、音楽や舞踏など文化や芸術・エンターテイメントを司る女神として学者や芸術家、演出家にインスピレーションや才能を授ける存在になります。
美術館や博物館は英語で「ミュージアム(museum)」、音楽は「ミュージック(music)」、そして娯楽は「アミューズメント(amusement)」などミューズ(muse)を語源とした単語はたくさんあります。
人間が記憶に縛られる苦しみから解く存在としてミューズたちを生み出した記憶の女神は、きっと慈悲深い神なのでしょう。
そして『サバカン』で語られる物語は大人になった久田(草彅剛)が思い出す少年のころの記憶です。
当然そこには、苦い体験も散りばめられているのですが、その苦い記憶が経験そして思い出に昇華されていく様を金沢監督は丁寧に描いていきます。
草彅剛=ミューズ論
ようやく冒頭の草彅剛=ミューズ論に戻ります。
ミューズの役割は文化とエンターテインメントを司り、ときに人間の才能を開花させうる存在であることは先に述べました。
そして草彅剛は共演する人々をさらに輝かせ、その才能を引き出す存在であることも周知の事実(だと勝手に思っています)です。
ここまで書いた時点で、本当に気まぐれに、ふと思い立って草彅剛が所属する事務所「CULEN」の名前の由来をGoogle先生に聞いてみました。
その名前の由来はご存知の方も多いとは思いますが、私は知りませんでした(すみません)。
「CULTURE & ENTERTAINMENT」⇒CULEN
文化とエンターテイメントがカレンの由来。
おそらく、たぶん、推察するに、、、やはり草彅剛は10人目のミューズですね。
※10人目のミューズ・・・1817年 ジョン・キーツ(英国)『詩集』メアリ・フロッグリーより
ミューズがストーリーテラーを務める本作品は、瞬時に空間を支配し私たちをあのいつか見た風景の世界にいざなってくれます。
記憶の女神とその娘たちに祝福されながら、監督はじめスタッフおよび全キャストの才能が終結して創った、愚直なまでに王道に挑んだ「青春の、少し前の、せいしゅん」映画。
その青春映画の結末は—、ぜひ映画館でご覧ください。
あと、尾野真千子のかあちゃん最高!
竹原ピストルのとうちゃんの優しさが泣けます!
まだまだ書きたいことはあるのですが、キリがないのでこの辺で置きたいと思います。
試写会直後の感想メモ
TwitterやFilmarksの方には書いているのですが
最後にオンライン試写会直後に記した感想メモを貼っておきたいと思います
試写会感想。
少年時代と今とではまったく密度の異なる時間を過ごしている自分に気づく。
少年時代の一日はなんと長く、密度が濃かったことか。
経験値が乏しい分、常に新しい経験に出会うことができる時代。
大人にとっては些細なことも大切な経験として記憶に刻まれる。
今日と違う明日を生き続ける事が新たな成長と絆をもたらしてくれるのだ。
生きる事に慣れてしまった大人にこそ観て欲しい作品。
子どもの頃に持っていたはずの瑞々しい感受性をきっと思い出させてくれる。
2022年7月12日 19:45
映画「サバカン SABAKAN」オンライン試写会
380(サバ)秒予告!
5年前に収録をしたもののお披露目に至らなかった、草彅剛が感動のあまり声を震わせたという「幻のラジオドラマ」音声を使用し(一部再録)、構成された380(サバ)秒、ロングバージョン予告!
予告編には劇伴を務める大島ミチルさんの音楽もふんだんに使われています。子供たちの冒険を盛り上げる、懐かしくも胸が躍る音楽を映像と共にお楽しみください。
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