前回の記事はおどろおどろしい予告で終わってましたね
はい
こういうのは引きが肝心ですから
それで
はい
続きは書けるのでしょうか?
!(汗
前回の記事
本作のモデル、ヒトラーの
1929年から第二次世界大戦の始まる直前1938年
までを予習しましょうと
はい
前回はまさかの
1929年の話になる前
に記事が終わっていましたね?
ぜ、前編ですから
ふふ
ふふ
草彅剛主演の舞台、ベルトルト・ブレヒト作『アルトゥロ・ウイの興隆』
2005年に新国立劇場にてドイツの劇団ベルリナー・アンサンブルによって来日公演が行われた際に寄稿したドイツ文学者の岩淵達治さん(1927年~2013年)によると本作は、
「やや落ち目だったヒトラーが首相に任命されるや、国会放火事件で共産党を弾圧、財界や旧勢力と妥協するために過激な同士を粛正し、大統領の死後は総統となってナチスの一党独裁体制を固め、オーストリアへ無血侵入して合併するまでの事件」
を描いたもの。ということで
1929年から第二次世界大戦の始まる直前1938年あたりの10年間でのヒトラーの所業をお勉強しましょうという意気込みで前回の記事を書き始めたのですが、、、
1928年あたりで後編へつづくになってしまいました。
てへ
今回は張り切ってさくっとその後の10年間のヒトラーを追ってみたいと思います。
さくっとお願いします
暗黒の木曜日(1929年)
第一次世界大戦終戦から5年後の1924年頃から1929年までの時期。
ヨーロッパ諸国はアメリカの関与と外交努力により、ようやく平和が訪れたという安堵感に包まれました。
困窮を極めたドイツにも明るい兆しが見えてきます。
アメリカ資本による景気の向上で第一次世界大戦の賠償金支払いの見通しも立ち、国民の不満や不安は減少していくのです。
過酷な賠償額をつきつけた「ヴェルサイユ条約」を糾弾し、経済を牛耳る「ユダヤ人」を告発することによって勢力を拡大してきたヒトラーにとってはまったく歓迎できない時期といえます。
このまま平和が続いてくれれば良かったのに
本当に、そう思います
そんな願いも空しく、、、
1929年10月24日(木)悪魔の大鎌が世界を襲います。
ニューヨーク株式市場で株価が大暴落。
翌週10月29日(火)には24日を上回る大暴落を記録します。
俗にいう「暗黒の木曜日」「地獄の火曜日」です。
世界大恐慌ですね
平和な時は世界大恐慌によってプッツリと終止符を打たれます
どうしてアメリカの株価が大暴落したのですか?
原因は第一次世界大戦の頃に遡ります
1914年から1918年。ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦が勃発していました。
当然、ヨーロッパで作っていた工業製品や農作物の安定生産は困難になります。
その役割を遠く離れたアメリカが担う事になり、ヨーロッパ諸国に輸出していたのです。
その結果アメリカの景気は右肩上がり。
第一次世界大戦後も、ヨーロッパは疲弊していたためアメリカの生産は好調なままです。
この外需(輸出)の好調を受けてアメリカの内需も拡大します。
住宅、道路、自動車など国内消費が高まり大変な好景気となっていきました。
そうなると経済一人勝ちのアメリカ企業の株はどんどん高騰していき、株価は天井知らずです。
世界中から投資資金がアメリカに流れ込んでいきました。
ところが
ヨーロッパにいっときの平和が訪れると、疲弊したヨーロッパ各国の生産力も徐々に回復。
やがてヨーロッパの主要国は自国の農作物や工業製品の保護のため、保護貿易主義を取るようになります。
アメリカ依存の生産からの脱却を目指したのです。
それまで作れば作るだけ売れていたアメリカだったのですが、次第に需給バランスが崩れ工業製品も農作物も少しずつ売れなくなっていきます。
投資家たちは、湯水のようにつぎ込んでいた資金を回収できないのではないかと不安に襲われました。
逃げるなら早いうちに!
株価が暴落する前に売ってしまおうという投資家たちの心理が一斉に働いた結果。
大暴落の引き金になった?
当時は過剰な株価の変動に対する規制もなかった時代ですから、不安が不安を呼び一気に株価が大暴落したんですね。
また国民は、正確な情報を知る術のない時代でもあった事も不幸でした。
不安を感じた国民は競って銀行から預金を引き出し、銀行は倒産。
銀行が融資していた企業も融資を引きあげられて倒産。
企業に仕事をもらっていた工場も倒産。
多数の自殺者がでて、失業率が25%にまでのぼったそうです。
悪魔のドミノ倒しですね
前編の記事でも悪魔のドミノ倒しがありましたね
世界経済の中心だったアメリカの大恐慌は世界中を混乱の渦に陥れたのですが、とりわけアメリカ資本に経済を依存していたドイツの混乱は大きなものでした。
アメリカ資本はつぎつぎとドイツから撤退。
一瞬にしてドイツは大不況に転落していきます。
やや落ち目だったヒトラーにとって、またとない好機を世界は与えてしまったのです。
大衆心理を巧みに掴んだヒトラー
世界大恐慌時のドイツの政権与党はドイツ社会民主党でした。
アメリカ資本に頼りきっていた政府は突如襲った財政危機になすすべもありません。
紛争と混乱を繰り返すのみで機能不全に陥り、世界大恐慌の5ヵ月後、内閣は総辞職します。
政権与党は自滅したのです。
そうなると、
ヒトラー率いる労働者党のライバルは同じ野党の共産党です。
いかに世論を味方につけるか、、、両党の戦略が明暗を分けます。
大恐慌(=株価の大暴落)は行き過ぎた資本主義の失敗です。
ゆえに共産党は「資本主義の批判をし政策・体制の改革」を訴えます。
一方の労働者党は、多額の賠償金をドイツに科した「ヴェルサイユ条約」また当時の政権の指導的役割を果たした「ユダヤ人」の排除を訴えます。
共産党が抽象的な体制批判に終始したのに対し、ヒトラーは具体的な敵を指定して大衆に訴えたのです。
大衆にとっては目に見える敵に不満をぶつける方がより激情できるわけです。
そして、ヒトラーの魔術的な演説能力がさらに大衆の激情を煽ります。
共産党の戦略はまとも過ぎましたね
ヒトラーの戦略はまんまと当たり、急速に労働者党は支持を集めます。
1932年の総選挙、ドイツ労働者党(以降はナチ党と記述します)は全議席の3分の1を獲得して第一党にのし上がります。
「資本主義 対 共産主義」という主張よりも目の前に分かりやすい敵を仕立て上げた方が大衆の心を掴みやすいのです。
大衆はどうやれば煽れるのか、
ヒトラーは熟知していたのでしょう
ナチ政権の誕生(1933年)
そして翌1933年1月。ヒトラーは首相に就任し、ナチ党政権が誕生します。
第一党だったナチ党の議席は3分の1だったんですよね。
過半数に達していないのにどうやってヒトラーは首相になったのですか?
ドイツという国は大統領と首相がいるのです
どっちが偉いんですか?
どっちが偉いという事もないのですが
ドイツでは政治権力は首相が握り、名目上のリーダーとして大統領がいます。
もともと国王が統治する君主制だったのですが、君主制を廃止したため国王に代わって大統領を置く事になっていました。
ただし大統領はただのお飾りではありません。
公共の安寧と秩序が著しく破壊されもしくは危険にさらされるとき、大統領は政府を解任し、議会に諮ることなく首相を任命する権限を憲法によって与えられていました。
かなり強力な権限ですね
ヒトラーはこの大統領権限を利用しました
当時のドイツ経済はまさにカオス状態。
ナチ党もカオスを造り出すべく、時の政権が安定しないようにあらゆる工作を行います。
そして1933年1月30日。
当時の大統領ヒンデンブルグは野党第一党の党首、ヒトラーを首相に任命します。
ドイツ共和国憲法の正統な手続きによってヒトラーは権力を獲得したのです。
ヒトラー独裁者への道(1933年)
首相に就任したヒトラーは、すぐさま独裁政治を実現するべく行動を起こします。
まずは国会で3割しか持っていないナチ党の議席を単独で過半数にする事を目論みます。
過半数を占めればナチ党のみで自由に法律が作れるからです。
首相に就任したわずか2日後の2月1日、ヒトラーは大統領に働きかけ国会を解散させます。
総選挙は3月5日に設定しました。
勝算はあったんですか?
このあと、勝算を作ったのです
選挙戦も後半にはいった1933年2月27日の夜。
首都ベルリンを揺るがす大事件が起きます。
国会議事堂が炎上したのです。
すぐさま、犯人として現場にいたオランダ人共産主義者が放火犯として逮捕されます。
ヒトラーは共産主義者による国家転覆の犯行だと激しく弾劾します。
翌日28日にヒンデンブルグ大統領に大統領緊急令を発動させ、国会議員を含む共産党員や社会民主党員を逮捕します。
都合よく事件が起き、即座に犯人が捕まり、速やかに大統領が敵対する野党党員を拘束する令を発しています、、、
怖いです…
真相は全くわからないのですが、
ヒンデンブルグ大統領はヒトラーに弱みを握られていたんじゃないかと思うくらいヒトラーの言いなりですね。
いずれにしてもこの大統領令は絶対です。
ドイツ共和国憲法に則って、合法的に敵対者である野党党員に対する流血沙汰の暴力が、各地で行使されることになりました。
そして迎えた3月5日の総選挙。
単独過半数は叶いませんでしたがナチ党は4割強の議席を獲得し、共闘する野党と合わせて過半数強の議席を獲得します。
1933年3月21日。
選挙で休止していた国会の開会式がベルリン郊外の教会で行われます。
ドイツ国民が軍人王と慕うフリードリッヒ大王(1688年~1740年)の眠る教会です。
国会議事堂が燃えたからですね
ヒトラーはこの教会に相応しく、王族を招きヒンデンブルグ大統領とともにモーニング姿で並びます。
この時の様子はラジオ放送でドイツ全土に生中継され、困窮するドイツの救世主ヒトラーのイメージをドイツ国民に植え付けました。
この放送は「宣伝の天才」と呼ばれたゲッベルスの仕掛けたものです。
ゲッベルスは新聞、ラジオ、映画などメディアを使ったプロパガンダを仕掛けた人物です。
マスメディアを使い、
大衆への刷り込みを繰り返し行うわけです
この手法は今もさかんに使われています。
幸いなことにネット社会になり、マスコミ情報を鵜呑みにせず自ら情報を精査するツールを現在の我々は手にしています。
このブログの内容も鵜呑みにしないでくださいね
ですね
そして3月24日。
国会はヒトラーに4年間の全権委任を認める「全権委任法」を与えます。
これはヒトラーが議会に諮ることなく法律を作ることができるという恐ろしい法です。
大統領の権限も及びません。
「全件委任法」というのは授権法といって、国家の非常事態に立法府が一定の権限を与える超法規的な措置です。
当然ながら成立の条件は厳しいものです。
国会議員総数の3分の2の出席、かつ出席議員の3分の2の賛成が必要なのです。
しかし、当時のナチ党連合の議席は過半数をわずかに超える数でした。
それなのに
そんな独裁を許すような法案があっさり通ったんですか?
はい
敵対する共産党などの国会議員は警察に拘束されていますから
あ!
ヒトラーは拘束された議員を総数から除外する議員運営規則を採択して、ほとんどナチ党連合だけの出席議員で3分の2以上の賛成表を獲得したのです。
ドイツの議会政治が死んだ瞬間です
ヒトラーは与えられた全権委任法をフルに行使します
まさに暴挙なのですが、これすらも法に則って合法に行われたものなのです。
全権委任法を与えられたヒトラー
ヒトラーはまず地方政府の支配に着手します。
全件委任法が成立したわずか1週間後の3月31日。
ヒトラーは「州議会と国会の均一化法案」を公布します。
州議会は即座に解散され、選挙なしで中央政府と同じ議席配分にされたのです。
全ての州議会でナチ党が多数派になります。
さらにそのわずか1週間後の4月7日。
ヒトラーは州の首相を任命する権限を持ち、ヒトラーの代理人を各州に配置し監視することを制定しました。
ヒトラーは次々と反乱の芽になりそうな要素を潰しにかかります。
不満の声をあげる場をなくすために「労働組合の解散」
ヒトラーの思想に反する「共産主義やユダヤ人の著作の焚書」
さらには「ナチ党以外の政党の禁止」等々…
独裁体制を築くための法案を次々と制定していきます。
ヒトラーに与えられた全権委任法の効力は4年間なんですよね?
その期間さえ耐えれば、、、
いえ、ナチ党の一党支配になってしまったという事は
国会審議にかけて合法的に延長する事もできるのです
!
そして翌年8月、ヒルデンブルク大統領の死(86歳没)によって国家元首の座が空くと、ヒトラーは自らを総統に就任することを定め、国家元首として全権を握ります。
総統とは大統領権限と首相権限を併せた強大な権力を持つ地位です
大統領職を無くし、自らが王となった事を宣言したのです
1934年8月。
ヒトラーは首相就任からわずか1年半足らずで完璧な独裁体制を造り上げてしまったのです。
ヒトラー、45歳の時です。
アドルフ・ヒトラーの興隆(1933年~1938年)
そんな恐ろしい政権、
ドイツ国民は反発しなかったのでしょうか?
世界大恐慌の影響をもろに受けたドイツ国民の絶望は大きかったと思います
失業者が溢れ、
国は返済しきれない賠償金を抱え、
そして再びの通貨危機です。
民主主義、資本主義から解放してくれる英雄を渇望していたのでしょう、、、
なるほど、、、
そして、
ヒトラーは2つの奇跡を起こします。
これによって国民人気はかつてないほどに高まる事になります
2つの奇跡?
はい、
ひとつめは完全雇用の実現です
ヒトラーが政権をとった1933年。
ドイツ国内の失業者は600万人いたと言われています。
それがわずか3年程度で完全雇用状態にまで回復させたのです。
どんな魔法を使ったのですか!?
ヒトラーの政策
当時のドイツ大衆が生活を営むにあたって抱いていた不安、
「一家の大黒柱が職を得られない事」
「病気やケガで苦しむ事」
この二つの不安を排除するために迅速かつ大胆な失業対策、社会保障政策を実行します。
有名なアウトバーン建設に代表される大規模な公共事業によって雇用を創出。
大胆な企業減税で企業活動を活性化し新たな民間雇用を創出。
女性は家庭を守るべきものとして外の仕事には就かない事。
女性に対する施策は
今だと批判の的になりそうですね
現代の評価基準で論じられるものでもありませんが
今なら批判の的ですね。
しかし当時は男女の役割分担として受け入れられ、
出生率の向上にも繋がったようです。
また特筆すべき制度として、所得税の源泉徴収制度も作られました。
労働者は申告する必要がなく政府も確実に税を徴収できるため、社会保障に使う予算をしっかり定める事ができるようになります。
雇用と社会保障の改善
良いことのように見えますね、、、
残念ながら、その通りで
ドイツ国民から絶賛される事になります
ふたつめの奇跡は何ですか?
再軍備、軍拡化の成功です
ヒトラーはドイツ国民のもうひとつの大きな不安を払拭すべく行動を開始します。
さきほどでてきた
生活を営むための不安の他に何が?
国の、
ドイツの将来に対する不安です
ああ
ヒトラーはドイツ復権の足かせとなるヴェルサイユ体制に対する挑戦を開始します。
ヴェルサイユ体制は、
第一次世界大戦で買った連合国側のドイツに対する制裁色の強いものでした
連合国側は戦争責任はドイツにあるとして
多額の賠償金と軍備の制限を科し、経済的にも軍事的にもドイツの国力を削ぐ目的のものでした
そうでした
ヒトラーはこの連合国側の足並みを崩すべく、影響力のある国を個別に懐柔してゆくのです。
ヒトラーの戦略 -平和の使者―
ナチ政権が誕生した翌月。
国際連盟はジュネーブで軍縮会議を招集しました。
ナチ党の勢いを警戒したのです。
1933年5月。
アメリカのルーズベルト大統領は世界44か国の元首に書簡を送り、軍縮を呼びかけました。
それにいち早く応えたのがヒトラーです。
書簡が届いた翌日に、ヒトラーは国会で宣言します。
「米大統領の提案を歓迎し、ドイツは国際条約を遵守し、紛争を武力ではなく平和的手段で解決する」
この宣言は海外でも大きな反響を呼び、ヒトラーは「平和の使者」として称えられました。
しかしこの宣言文に、ヒトラーはある条件を忍ばせていました。
「ドイツが他国と平等な権利を確保できなければ、ジュネーブ軍縮会議や国際連盟から脱退する」
ええー!?
それなのにヒトラーは称えられたんですか?
はい、
武力を辞さないタカ派だったヒトラーが、
急に平和的なハト派に変わったという衝撃が大きすぎたため、
平和の使者のイメージだけが強調されたのです。
ナチ党のマスメディアを使ったイメージ戦略ですね、、、
次にヒトラーが狙ったのはバチカンです。
ナチ党は政権を獲る前からカトリック教会を攻撃してきました。
当然、カトリックの本山であるバチカンはドイツと対立します。
カトリック教会に対するナチ党の攻撃は止むことはなく、疲弊したドイツのカトリック教会はバチカンに和解協定を結ぶよう懇願します。
そして巧みな交渉のすえの1933年7月。
ナチ側は「カトリック教会の存在を認める」
教会側は「聖職者の政党参加を禁止する」
という条件で和解協定を結んだのです。
ヒトラーはこれを利用して「バチカンがナチを認めた」と喧伝します。
世界中に多数の信者を持つ「バチカンがヒトラーを認めた」とイメージ戦略に利用したのです。
と同時に、ドイツのカトリック教会は政党参加を禁止されているためヒトラーは教会の政治への関与の分断にも成功したのです。
もう、、、
なんでもヒトラーの思い通りじゃないですか
悪魔が味方したとしか言いようがないですね、、、
しかもその後もナチによる教会攻撃は止むことはありませんでした
バチカンは裏切られたのです
ドイツ国内のヒトラー人気はうなぎ上りです。
1933年10月。
ジュネーブ軍縮会議おいて、英米仏伊の4か国はドイツに対して対等の地位を与える提案をします。しかしいきなり対等にするのも躊躇われます。
そこでだされた案は、
「4年間は保護観察期間としてドイツの軍拡を禁止し、その後対等の地位を与える」
というものでした。
ここで5月にヒトラーが行った平和宣言が利用されます
「ドイツが他国と平等な権利を確保できなければ、ジュネーブ軍縮会議や国際連盟から脱退する」
ヒトラーはすぐさま「国際連盟脱退」を表明、国民投票にかけます。
1933年11月に行われた国民投票では95%もの賛成票を獲得することになります。
ヒトラーは国民の支持によって国際連盟を脱退、と同時にヴェルサイユ体制をも崩したのです。
あの…
はい
ここまでの話は
ヒトラーが政権を獲って
まだ一年経ってないんですよね?
そうですね、、、
眩暈がします
この後のヒトラーの再軍備と軍拡化の勢いは
大胆過ぎてちょっと凄いですよ
神のごとき洞察力 -再び軍事大国へ―
ヒトラーは素早く再軍備化を強行します。
一時はハト派に転じたかに見えたヒトラーに対して軍幹部は否定的だったのですが、再び軍部にチャンスが巡ってきた事に感謝し、服従心を増大させることになります。
そして国民に対しては、
「戦争のための軍備ではない。ヴェルサイユ体制という不当な仕打ちからドイツの主権を回復させるに過ぎない」
と再軍備の正当性を訴えます。
この軍隊の増大化路線は巨大な失業対策としても民衆の支持を受けるのです。
ヒトラーは大衆の絶大な支持を受けながら、
かつ、それなりに手続きを踏んできている事に驚きます
そして1935年1月。
フランスに占領されていた炭鉱を有するザール地方において
「ザール地方のドイツへの帰還」
に対する住民投票が行われます。
え?
なんでそんな住民投票ができるんですか?
実は、国際連盟によって定められていた投票なんです
第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約では15年間の国際連盟の管理下に置かれ、15年後に住民投票で帰属を決めるとされていたのです。
それを実行しただけなんです
とはいえ
それは国際連盟で決めたことですよね。
国際連盟で止めることはできなかったのですか?
なんだかんだいって国際連盟の足並みは揃っていなかったんですね
ヒトラーは各国の思惑を正確に読んでいたとしか思えません。
個人的にはイギリスがやらかしたかなと、、、
どういう事ですか?
イギリスとフランスは歴史的に仲が悪いのですが
フランスの力が大きくなりすぎるのを警戒していた節があります
まあ
また、ドイツの後ろのロシアもイギリスにとっては警戒すべき国でした。
なのでフランスの国力を削ぐためのザールのドイツへの帰還、
ロシア侵攻の防波堤としてのドイツの再軍備化はイギリスにとって決して悪い話ではないと思っていたのかもしれません…
どうして…
外交面で非常に優秀な諜報組織と工作機関をヒトラーは持っていたんでしょうね
住民投票では90%以上の賛成票を獲得してザール工業地帯のドイツ帰還が決定しました。
ドイツの生産力に大きく寄与する事は間違いありません。
このザールの帰還は「宣伝の天才」と呼ばれたゲッベルスによって
「ヒトラー総統による外交の勝利」
として喧伝され、ドイツ国民全体が異様な高揚感を包まれていくのです。
ラインラント進駐
1936年3月。
ヒトラーは大きな賭けにでます。
きっかけはその前月1936年2月にフランスとロシアが相互援助条約を締結です。
ドイツを挟み撃ちする事実上の軍事同盟でした。
これに反発したヒトラーは自衛のためと称してラインラントの非武装地帯に軍隊を進駐させます。
ラインラント?
前編でも少し触れましたが
第一次世界大戦に敗北したドイツはヴェルサイユ条約によって
フランス・ポーランド・ベルギー・デンマークに隣接する地域を割譲しました
そうでした
割譲した地域はどの国も侵攻してはならない非武装地帯とされたのです。
そして、そのフランスに隣接するライン川沿いの地域が、
ラインラント
フランスはただちに国際連盟に提訴、ドイツに対して制裁を求めました。
ヒトラーもイギリスやフランスが反撃してくれば、ラインラントから退く覚悟をしていたのですが。
国際連盟は何もしなかったのです
ええー!?
またしてもイギリスは、
ヨーロッパのパワーバランスのみを考慮して動かなかったのです。
ヒトラーもイギリスの判断に期待しての進駐だったのだと思います。
フランスもドイツ軍を過大評価して単独で反撃する事を諦めました。
ラインラント非武装が崩れたことはフランスの軍事的優位が崩れたことを意味します。
これを見て、フランスに治安を依存していたチェコやルーマニアといった欧州各国は、ドイツと敵対するよりも国交を改善する事で自国を守ろうという考えに傾いてきます。
このことで、ヒトラーは神がかり的な勇気のある指導者であるというイメージを作り上げ、「ヒトラー神話」ができあがることとなります。
ドイツが欧州随一の強国となった瞬間です。
フランスもイギリスもドイツに対して融和政策に次第に傾いていきます
ヒトラーの凱旋 -オーストリア併合-
ところでみいたさん
はい
ヒトラーはオーストリア人だったのは知ってましたか?
もちろんです
わたしは知りませんでした…
25歳の時、ドイツの第一次世界大戦参戦を機に、
ドイツバイエルン軍に義勇兵として志願入隊しました
ドイツとオーストリア。
もともとは同じゲルマン民族であり、第一次世界大戦の時は同盟国でした。
移民に寛大なオーストリアを嫌ったヒトラーは自ら志願してドイツ軍に身を投じ、そしてドイツの総統に昇りつめました。
ドイツ民族主義であったヒトラーにはもうひとつ成し遂げたいことがありました。
オーストリアの併合です。
郷愁みたいなものがあったのでしょうか?
いえ、そんなロマンチックな想いはなかったと思います。
むしろ屈辱の絵描き時代を過ごしたオーストリアには悪意すら抱いていました。
鉱物資源と地政学的な軍事拠点が興味の対象だったようです。
第一次世界大戦後のオーストリアもやはり混乱を極めていました。
社会主義者と反社会主義が武力衝突を繰り返すなど治安も悪化。
世界大恐慌の波にも飲まれます。
1931年にはオーストリア最大の銀行が倒産し、金融機構全体が機能不全に陥っていました。
そして疲弊しきったオーストリアの人々は短期間のうちにドイツ経済を立て直し、ヴェルサイユ条約の鎖からドイツを解放した偉大なる指導者の軌跡をリアルタイムで見ていたのです。
1938年3月。
ヒトラーは国境にドイツ軍を集結し、最後の抵抗を試みるオーストリア政府を威嚇し首相を辞任に追い込みます。
その日の夜のうちにドイツ軍はオーストリアに進軍をはじめます。
翌々日、オーストリア入りしたヒトラーはオーストリアの併合を宣言します。
1938年3月13日のことでした。
この時、
オーストリア人によるヒトラー歓迎は「狂乱」とも呼べるほど熱狂的なものだったようです。
オーストリア国民はドイツ軍の進軍を歓喜の嵐で迎えます。
ヒトラーは救世主として迎え入れられたのです。
ヒトラー、49歳の故国凱旋。
ウィーン・ホーフブルク宮殿でオーストリア併合を宣言するヒトラー
ヒトラーに熱狂し、称賛する人々の声は、途絶えることがありませんでした…
あなたがもし、
当時のドイツの民だったとしたら
どこでヒトラーを止める事ができたと思いますか?
『アルトゥロ・ウイの興隆』の作者ベルトルト・ブレヒトの戯曲に『ガリレイの生涯』があります。
地動説を唱え異端裁判にかけられ、
自説を撤回したガリレイに、失望した弟子が非難の言葉をぶつけます
「英雄のいない国は不幸だ」
即座にガリレイは返します。
「ちがう、英雄を必要とする国が不幸なのだ」
jamさん…
はい…
長いうえに
話が重すぎます!
ですよねー
つよぽんの動画でほっこりしましょう
以上、草なぎ君主演の舞台『アルトゥロ・ウイの興隆』の予習を終わります。
長かったー…_(:3」∠)_
長くてすみません、関連する前編の記事です…
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